努力できる才能

 

 

「努力するのにも才能が要るんだよ」

 

まとめサイトで見た文言。最初見た時、は?と思った。

私は、人よりも努力してきた人間だと思う。小中高で中だるみしたりしつつも、基本的には"できる側"だった。中学受験も高校受験も大学受験も、あのプレッシャーを三回も乗り越えて来たし、それなりにちゃんと結果を出してきた。あらゆることを努力で乗り越える度、自信をつけた。これは純粋な私の努力であり、努力を応援してくれる家庭に恵まれたことは運ではあるが、しかしこの努力だけは私を裏切らないと、そう思っていた。

 

努力できるのが才能?努力は当たり前にするものではないのか?努力できるのにしないのは怠惰ではないか。努力するかしないかすらも才能のせいにするな。憤りを感じたが、それ以上は何も考えなかった。

 

私の母は、努力をしない人だ。もちろん私たち姉妹を育てる努力は死ぬほどしてきたと思うが、自分を高めるためだとか、結果を出すために努力することはしない。母は勤める会社の課の中で、唯一の平社員だ(一人を除いて役職つきというのは妙な話だが、何せ小さい会社なので)。真面目に勤めてもう10年以上経つのに、酷くない?と私は言ったが、母は言った。

 

「お母さんは出世とか向いてないと思うんだよね」

 

自分は他の人より優秀ではないし、役職に就いて責任が増えるより、今のままの方が楽なのだと。

「出世が向いていない」。この言葉が軽く衝撃だったが、ストンと胸に落ちた。出世にも向き不向きがあるのか。母は、こうも言った。役職に就いているいないに関わらず、良い人は良い人だし、そこでしか人を見ていない。

 

母の視点は私とは違った。人間は努力するのが当たり前、今より良いところに行きたいと思うのが普通だと思っていた。

しかし、"良いところ"はそもそも人によって違うのかもしれない。そこそこが一番心地良い人も、沢山いるのかもしれない。

 

私が努力する理由は、将来のためとか建前もあるが、基本的に"褒められたい" "一目置かれたい"からだ。先天的な性格と、後天的な要因が合わさって、努力する理由になっている。これが後天的な要因だけだったら、努力するだろうか。努力することはできるだろうが、決定打にはならず、結局何かを成し遂げる動力としてはエネルギーが足りないだろう。

多くの"そこそこに安住する人"は、この承認欲求があまりないのではないかと推測する。自分がそもそも人を役職だとか結果で見たりしないのだ(こう書くと語弊があるが、もちろん結果は見るだろうし、凄いなぁとも思うだろう。ただ自分の結果と他人の結果は関係がないと考える)。だからこそ、努力する大きな理由がない。

 

しかしまあ、努力するのにも才能が要る、という言い方は努力好きの人にはやはり角が立つので、努力するかしないかは先天的な性格が決める、あたりが妥当だと思う。でも言葉が強いおかげで考えさせられるきっかけになったからこれはこれで良いのかも?

 

 

この気付きを踏まえここからは個人的見解という名の蛇足だが、"役に立つ人材しか要らない"みたいな考えはかなり危険だと感じる。中学生のとき、働きアリにも2割はよく働き、6割はそこそこ働き、2割はサボる、だからみんなよく働く2割になれ、みたいなことを言われた記憶があるが、まあ無理な話だろう。性格の問題なんだから。

大事なのはこのバランスで、そこそこ働く人がいないと努力する組は一気にギスギスし始める。いつ自分が蹴落とされるか分からないからだ。ギスギスする集団の末路は崩壊と決まっている。そこそこ働く人々が潤滑油になってくれるので、頑張る人も普通に働く人もサボる人もまとめて大事にしてくれる会社が増えるといいなと思います(適当)。終わり!